通っているイギリスの語学学校の友人との話のネタに、デジカメのメモリーに会った私の自宅の写真をみせたことがあります。その写真は私の部屋の勉強スペースとも言うべき場所のものですが、もうあり得ないくらい散らかっています。友人たちは特に気にすることなく次の写真を見たがっていましたが、私はかなり落ち込んでいました。

高校時代に使っていた家庭科の教科書に、世界各国の家族が家の中のモノを全て庭に持ち込んだ写真がありました。日本の過程の写真はそのまま日本社会を表しているようでした。にこにこ笑う一家の周囲を気持ち悪いくらい沢山のものが取り囲んでいる。モノに埋もれているという表現がぴったりの何とも言えない写真でした。

教科書の写真と自分の部屋の写真は非常に似ています。モノが多いだけでなく片付けていないということがありますが、それ以上に満たされすぎて飽和状態を越えているように思えます。人からもらったものもかなり多いですが、自分の手元から離すことを考えなくていけないような気がします。日々の生活がなぜこんなに複雑で疲労にまみれているのか。汚い自分の部屋を見ると旅行の準備をするときと気持ちがシンクロします。

誰かが飢えで喘いでいる時、わたしは生活の複雑さに気が滅入っている。不可思議な子の世界があまりにも簡単な仕掛けで作られているのだとしたら、その原因の一つは間違いなく部屋を汚す様々なモノ。捨てることだけでは無駄になるものでも、工夫次第でいくらでも必要な人の手に届くかもしれない。それは可能性に過ぎないけれど、部屋に打ち捨てられたモノが大切にされる希望であり、誰かを救う希望であるということに気が付くはずです。

そういえば、5年前くらいに祖父が亡くなった時のことですが、
1人暮らしの部屋は見事に片付いていました。
そして、磨かれた机の上に一通の遺言書が置かれていたのを覚えています。
人として尊敬していた祖父。
シンプルに生きたいものです。